東欧旅行記①ー世界史のお勉強ー

5月末に行った東欧の旅行まとめ(自分用)だよー
ルーマニアブルガリア紀行ということで、まずはざっと歴史をさらっておく。

 

 ルーマニア(Romania:ローマ人の国)ってすごいんだよ!

東欧は大体スラブ語圏なんですが、珍しくロマンス語由来のルーマニア語
古代にローマ帝国の領土であり、国名にも言語にもその名残が強く残っている。
で!オスマン帝国ハプスブルク帝国など周辺諸国の影響も深く受けていて、かなり独特の文化を持つ国なんですよ!!(だから行ったんだけど)
顔つきもどちらかといえばラテン系の顔の方が多い印象だった!

 

古代

旧石器時代の歴史遺産なんかもたくさん出ているルーマニア
昔は黒海に面したエリアから内陸にかけてダキアという小国でした。

ローマ帝国トラヤヌス帝との戦争ダキア戦争により、属州となります。
(実質植民地化。でも先に手を出してたのはダキア。)
その結果、もともと住んでいたダキア人とローマ人の血が混ざりあい、現在のルーマニア人の母体ができてきます。

その後ローマ帝国ダキアを放棄、西ゴート族(彼らの歴史も面白いので調べてみて)に譲渡。100年程度の支配を受けますが、フン族中央アジアの遊牧騎馬民族。スラブ系。っょぃ。)の台頭により、西ゴート族が移動してしまいます。
支配者を失ったルーマニアは、フン族やブルガール人(後述)やら色んなところから人が流入しながらも、なんとかローマ人の文化を残していたのです。(しかも1000年くらいまでこれが続く)

 

近世

10世紀になって、ようやく小国がたくさん出来始める。
ルーマニア中央にある カルパチア山脈を基準に大きく3つに別れます。
(ほんとはまとまるまでのいろいろも書きたいけれど)

 

北西のトランシルヴァニア(Transilvania)

 ハンガリー王国支配下にいち早く入った国。(現在もハンガリー人2割くらい)
 まぁわかりやすく一番ハプスブルク家に振り回された国です。(すき)

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トランシルヴァニアの主要都市ブラショフの旧市街と中央広場)

 ドイツ人に入植されたり、ラヨシュ2世の死後、ヤーノシュとフェルディナンド1世との勢力争いの場になったり。その仲介をスレイマン1世がしたので、オーストリアオスマン帝国の板挟み!(この時点でややこしい)

 ヤーノシュの死後、オスマン帝国支配下だったり、ハプスブルク帝国の傘下だったりしながら、ようやくトランシルヴァニア公国が形成。
 神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世の支配下になると、ハンガリー人の貴族ボチュカイが反乱→トランシルヴァニア公国皇帝となる
 1660年台からの勢力を増すハプスブルク帝国オスマン帝国との争いに巻き込まれる形で、王権が転々とし、1711年にハプスブルク帝国に完全に統合!

  オーストリア領・ハンガリー領を経由して、第一次大戦後のトリアノン条約を機にようやくルーマニア王国に併合されます。
 (でもその後北トランシルヴァニアだけハンガリーにあげたりしてる)

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Fate/Apocryphaのトゥリファスのモデルとなったシギショアラの町並みもトランシルヴァニア
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シギショアラ:旧市街は本当に絵になる) 

北東のモルダヴィア(Moldavia)

 スラブ・ハンガリータタールと3つの民族から猛アピールを受けたところ。

オスマン帝国ロシア帝国の板挟みに苦しんだエリア(ちょうどピョートル1世のころ)
度重なる争いの結果、オスマン帝国モルダヴィアの公主に自国の官僚(ファナリオティス)を置いて支配。

その後ブコヴィナハンガリー領)ベッサラビア(ロシア領)という2つのエリアに細分化される。ベッサラビアは領主を転々としながら1910年モルドバ共和国として独立。)

まじぐちゃぐちゃしてて私もよくわかってない。

 

南のワラキア(Wallachia)

現在の首都ブカレストがある、色んな意味で一番有名なところ。
色んな民族・国から攻められて、周辺諸国の戦争の中継地みたいにされてた。
詳しくはwiki見てってくらい話題に事かかない歴史があるので、行ったところの話だけ。

そもそもワラキアの領主制度めっちゃややこしくて説明したらキリがない・・・

 一番有名なのはヴラド・ツェペシュ(串刺し公)

f:id:kthxbi:20180629214518j:plainこの肖像画が超有名
トルコ史でもFGOでも出てくる、ワラキアをオスマン帝国の猛攻から守った大英雄。

 

19世紀初頭、オスマン帝国の支配・ギリシャ戦争と混乱を極める中で、ワラキアはロシアに支援を求める。
ヨーロッパ各地での革命の影響を受け、革命運動が活発化。
クリミア戦争宗主国であったオスマン帝国・ロシアが疲弊したタイミングで、モルダヴィア公国と併合しルーマニア公国が成立した。

 

近代

 1878年のベルリン会議でようやくオスマン帝国からの独立が認められたルーマニア公国は、その名前を「ルーマニア王国」と改め主権を持つことができた。

でもどうにもしっくりくる王様が見当たらず、諸国にお願いしてドイツから王様を連れてくる。それがカロル一世。 

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(カロル一世像と夏の離宮ペレシュ城)

 カロル一世から5代(同じ人が2回してるので4人)の王政があった。
まぁこれがまたややこしいので見ると面白い。

王家の中で有名なのが2代目のフェルディナンド1世の奥さん、マリア。
イギリスのヴィクトリア女王の孫だったこともあり、大々的な結婚式が執り行われた。(でも夫婦仲は不仲だったと有名)

 

第一次大戦では連合国側で参戦
第二次大戦中のハンガリーソ連からの侵略に対応していないとして王政が崩壊
1947年にルーマニア民共和国が成立

そして1967年、とうとうチャウシェスク氏指導の元、ルーマニア社会主義共和国が成立する。

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(国民の館:世界で2番目に大きい建築物。国会議事堂。)

この先のルーマニアこそ、ぜひ個人で調べてほしい。

西側諸国にへつらう形でご機嫌を取りながらも、官僚の失政や経済の疲弊などから国民の生活水準はどんどん悪化。しかし、チャウシェスク氏が国内を探訪する際には「いかにチャウシェスク政権になってから生活が豊かになったか」という演出がなされ、氏は国民の貧困には気づいていなかったのではないか、という話もある。

1989年、民主化革命が流行し、それに乗じてルーマニアでも革命が起こった。
周辺諸国が無血革命を遂げる中、暴動が発生し官僚が死亡。
チャウシェスク夫妻の処刑をもって革命は終結した。

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(革命広場:正面の建物が旧共産党本部庁舎前広場)

 

 

と、暗い話で終わっておいて次の記事で宗教の話でもします。

なんか間違ってるぞ!ってとこあったら教えてください・・・。